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吉祥寺のオーディオ機器とNana Mouskouriのレコード・CD専門店ブログ。

NANA MOUSKOURI の略歴

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本日の記事である当ブログNana Mouskouri の軌跡」のカテゴリーでは、Sound Galleryの店舗ページで公開しているNana Mouskouriの紹介記事をブログに転載しています。もし宜しければ店舗ページもご覧ください!

NANA MOUSKOURI の略歴

1934年 - 生誕 -

10月13日(当初は1936年生まれと紹介されていたが、最近の記事では1934年生まれで紹介されている。)、クレタ島で生まれ、3歳の時に首都アテネへ移住、ナチス占領下で育ちました。(当初はギリシャの首都アテネの生まれと紹介されていたが、ここでは最近の紹介記事とした。)

1951年 - 歌手としての歩み -

アテネの音楽院コンセルバトワール・ヘレニークに入学し、クラシックの勉強をしていましたが、次第にポピュラーやジャズにも興味をもつようになり、たまたま仲間たちと作ったグループ≪ジ・アテニアンズ≫と共に、在学中にラジオに出演したことが学校に分かり退校になり、アテネの「ル・ザキ」という酒場でポピュラー歌手としての第一歩を踏み出しました。

1956年 - スターダムへの階段 -

ラジオ・アテネでデビュー。その後1959年に、はじめてレコードの吹込みをした曲「アテネの白いバラ」(彼女の才能をいち早く認め後援を惜しまなかった恩師マノス・ハジダキスの作品)が大ヒットし、それからスターダムへの階段を着実に登ることになりました。 

1960年 - より多くの聴衆へ -

9月、スペインのバルセロナで開かれた地中海歌謡祭にギリシャ代表として出場して、みごとに優勝の栄冠を獲得しました。また、ハリー・ベラフォンテもアテネのクラブで彼女の歌を聞いて感動し、ムスクーリの歌をアメリカの聴衆に聞かせようと心に決めたのでした。 

1960年 - オランピア劇場での成功 -

年末よりはパリを活動の拠点とし、1962年にはルクセンブルクで、放送による最もポピュラーな歌手に与えられる“銀のライオン賞”を受賞し、同年12月にはジョルジュ・ブラッサンスの前座としてオランピア劇場に出演し、大成功を収めました。 

1964年 - アメリカでのコンサート -

秋には、ハリー・ベラフォンテの招きでアメリカ公演(ニュー・イングランドのヴァーモント州にある学生の町ヴァーリントンでのコンサートがベラフォンテとの初の共演であり、またムスクーリのアメリカのステージへのデビューでした。)が実現し、これまた絶賛を博しました。

1967年 - 活躍は世界を舞台に -

3月にはACCディスク大賞を受賞、同年10月には大スターとしてオランピア劇場のステージに立ち、トップ・シンガーとなったムスクーリは、その後もロンドンのロイヤル・アルバート・ホールやニューヨークのカーネギー・ホールでリサイタルを開いたり、オランピア劇場でロング・ランを行ったり、世界を股にかけてめざましい活躍を続けました。

1971年 - 欧州で不動の存在に -

イギリス、オランダ、オーストラリアの諸国から、計5枚のゴールデン・レコードが贈られ、イギリスにおける同年度のアルバム・セールスでも、断然女性ヴォーカルのトップを占めました。

1974年 - 日本への来日 -

8月には初来日し、中野サンプラザにて公演が行われました。 しかし、名声を得ても、彼女は大スターにありがちな気取りは無く、ステージでも眼鏡を外さず、ありのままの自分を見せ、ごく自然な態度で聴衆に接し、どんな曲でも彼女なりに歌う姿勢を変えようしませんでした。

この様な歩みこそが、ナナ・ムスクーリの魅力の根源であると感じます。淡々として気負いがなく、それでいて何か情感が伝わってくる彼女の歌声は、きっと聴く人の気持ちを和らげ、心に安らぎを与えてくれるでしょう。