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Sound Gallery ブログ

吉祥寺のオーディオ機器とNana Mouskouriのレコード・CD専門店ブログ。

NANA MOUSKOURI の生い立ちと時代背景

Nana Mouskouri の軌跡

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本日の記事である当ブログNana Mouskouri の軌跡」のカテゴリーでは、Sound Galleryの店舗ページで公開しているNana Mouskouriの紹介記事をブログに転載しています。もし宜しければ店舗ページもご覧ください!

NANA MOUSKOURI の生い立ちと時代背景

1941年4月6日、当時ヨーロッパに君臨していたナチス・ドイツは、怒涛の勢いでギリシャへの侵攻を開始しました。その残虐さは今日も史実として伝えられており、当時6歳だった彼女は身をもって体験しました。彼女の背中には、ナチ兵士に打たれた傷が、未だ残っているそうです。

戦災は食糧不足を起こし、飢えの為に人々は次々に倒れ、その死体がゴロゴロ横たわっている道端で、ヒットラーの兵士たちがムシャムシャ食事をしている風景を、彼女は眼の当たりに見たのです。また、ナチに抵抗するレジスタンスの人達の集まりや、その犠牲者たちの粗末な葬儀にも何度か遭遇しております。

彼女は、「私はファシズムを心から憎みますし、それらの勢力にはどこまでも抵抗します。」とキッパリと言い切っています。

 

ナナの天性の才能

やがて平和がおとずれると、貧しかった彼女は、三つ年上の姉のジェニーと共に、音楽の道を選びました。その後、姉のジェニーは家庭生活を選びましたが、彼女は歌の道をひたすら進み、驚くべき熱意と忍耐力でグングンと上達し、1951年に家庭教師であった友人(家が貧しかったため、ある友人がロハで家庭教師を買って出て、歌のレッスンをつけてくれていた。)のすすめでアテネの音楽アカデミーに入学を許され、クラシック音楽家を目指して声楽に関する和声楽とピアノを専攻して7年間の研鑽を積みました。また、彼女の声帯の構造は、先天的な特質(通常はふたつある声帯の膜がひとつしかないことによる独特の音域の広さ)が備わっており、その声帯はハイ・ノートでしかビブラートしませんでした。

 

 ジャズとの出会い

卒業試験を目前にしたある日、彼女は新鮮な音楽に魅せられることになります。それはジャズ音楽でした。この出会いが、彼女の運命を180度変えてしまうことになりました。アテネのラジオ局で、小編成バンドをバックにポピュラー・ソングを歌った彼女に、学校側は最終テストへの門を閉ざしてしまいました。このため、彼女はアテネのクラブで、オーケストラ付きの歌手となりました。

クラブで歌っている彼女の才能を見抜いたのは、ギリシャの作曲家マノス・ハジダキスでした。1960年度のアカデミー主題曲賞を、日曜日はダメよで獲得したこの作曲家は、1958年以降、彼女のために、進んで作品を提供してくれたのでした。

 

 トレード・マークと共に

そして2年後の1960年9月、スペインのバルセロナで開かれた地中海音楽祭にギリシャ代表として参加した彼女は、マノス・ハジダキスの作品アテネの白いバラを歌い、見事優勝を果たしました。俄かに脚光を浴びた彼女に、世界各国から引合いが続いたそうですが、彼女のバックを務めるジ・アテニアンズの仲間たちと離れたくないとのことで、どことも契約をしなかったそうです。しかしこの年、アテネにやって来た、アメリカの人気歌手、ハリー・ベラフォンテの知遇を得たこと、フランスで彼女のレコードを聴いたフランス・フィリップス社のルイ・アザンより、移住の進めもあり、意を決してパリ入りをします。オルリー空港に降り立った彼女は、スターという印象とはほど遠く、化粧もせずにギリシャの農民服をまとい、あのトレード・マークの眼鏡を掛けていました。

 

 新たな歩み

1961年1月、民俗楽器ブズーキの名手でもあるジョルジュ・ペツィラスと結婚。彼とは、まだギリシャに居た無名時代からの音楽仲間であり、ジ・アテニアンズというグループをひきいて、彼女の伴奏を務め、陰に陽にその成功には計り知れない寄与をして来ましたが、1975年に離婚しております。おしどり夫婦といわれた二人が別れるのは、よくよくのことと思われます。彼女にとっても、口には出せない苦しみがあり、思い切った決心が必要だったと推測されます。

夫君と別れて、独自の道を歩み出してからは、彼女の美しくて清らかな歌声に、これまでにはなかった陰影のようなものが加わり、しみじみとした人生の味をかもし出しています。