NANA MOUSKOURI“来日記者会見”
NANAが1974年にコンサートのために初来日した折の、記者会見の記事がFM fan の1974 NO.18 8/26号にありましたので、その概要を紹介させて頂きます。
写真上右側は、7/23 に東京・六本木のレストランでの記者会見の模様です。コンサートでは、NANAはリズミカルな曲では指を鳴らして拍子をとり、バラード風なものでは両手でポーズをとり、サイモン&ガーファンクルの『スカボロー・フェアー』『明日に架ける橋』、ビートルズの『レット・イット・ビー』、日本語で歌うミッシェル・ルグランの『シェルブールの雨傘』・・・・・。ギリシャの歌では、懐かしいヒット曲『アテネの白いバラ』『日曜日はダメよ』、さらに『緑の輝き』『太陽とそよ風の下で』と盛りだくさんの歌を。
真紅のドレスに着替えた後半の終わりには、華麗なブズーキの調べにドラムスがオリエンタルなリズムを刻む『エンナ・ミソス』、日本語で『赤トンボ』、讃美歌『アメージング・グレース』と歌い次ぐショウの構成も見事で、いつまでも拍手の波が続いたとの事です。
写真下は、初日のステージを数時間後にひかえた7/22の午後、宿舎の東京ヒルトンホテルでの特別インタビューの模様です。
≪アイドルはボブ・ディラン≫
Q;オペラ歌手を目指していらっしゃったということですが、何が動機でポピュラー界に飛び込んだのですか?
A;音楽学校でクラシック音楽を勉強していましたが、全くの偶然でジャズの面白さを知ったのです。ダンス・バンドをバックにしてクラブで歌うようになって・・。こうなるともうあと戻り出来なくなってしまったんです。
Q;どんなジャズを歌っていたのですか?
A;エラ・フィッツジェラルドのものですとか「バートランドの子守唄」とかいったスタンダード曲やアメリカン・バラッドが中心でした。
Q;それらの曲と現在の好みとの関係は?
A;そのころは有名な曲だからといって歌っていましたが、現在では歌が訴えようとする内容を考えて歌っています。だからリリックな感じを大切にしています。
Q;叙情性を重視する点でシャンソンなんかがお好きですか?
A;好きです、ただ、私は選曲する時は素朴でシンプルな曲にしています。シンプルな曲でも歌詞の意味が人をとらえ魅惑するものでなければ・・・・。
Q;例えばどんな歌手が好きですか?
A;ハリー・ベラフォンテはもちろん、クリス・クリストファーソン、サイモンとガーファンクルも。ジョーン・バエズも好き、でも私のアイドルはボブ・ディランね。
≪マノス・ハジダキスについて≫
Q;ハジタギスは、いわばあなたの育ての親ともいえる人だと思うのですが?
A;そのとおりです。マノスに一番感謝していることは、彼が私の歌の特色を良く知っていて、私に合った曲をたくさん書いてくれることです。今でも私の曲の大半は彼の曲です。彼はヨーロッパで最もポピュラーな作曲家だと思います。
Q;「アテネの白いバラ」について聞かせて下さい。
A;「アテネの白いバラ」は大成功を収めました。でもマノスと組んでの仕事は「マイ・ラブ・イズ・サムホエア」という曲が最初だったんです。この曲はギリシャ国内ではヒットしましたが、世界的ヒットという点ではやはり「アテネの白いバラ」が最初ですね。
≪ハリー・ベラフォンテについて≫
Q;ベラフォンテとの出逢いは?
A;1960年に、ハリー・ベラフォンテがギリシャにツアーに来ていたのです。その時、私はクラブでジャズを歌っていたころです。そのショウをハリーがたまたま見ていたんですね。その後、ハリーは≪眼鏡をかけたギリシャのシンガー≫を捜していたのです。1963年のことでした。
Q;それがきっかけでアメリカへ進出することになるのですね?
A;そうです、1964年の夏のことでした。カレッジ・コンサートが中心で、そのほか一般の劇場でもコンサートを開きました。
Q;ベラフォンテとは・・・・?
A;ベラフォンテとは親しい友人です。今年もベラフォンテが日本のツアーから戻ってきたら、電話で「日本は良いところだから必ず行くといい」と勧めてくれました。
Q;ベラフォンテからはどのような影響を受けたのですか?
A;音楽面での影響は、彼がフォークの面白さを、第二にギリシャ音楽をギリシャ語で歌うことを強く教えられました。また、プロ意識の重要さも彼から学びました。
最後に、眼鏡をかけたシンガーは珍しいとの問いに、NANAは『子供の時はコンプレックスを持っていたが、私生活ではいつでも眼鏡をかけており、コンサートだからといって眼鏡を外すというのは、自分自身を偽ることになると思う。』と答えております。また、自分の在りのままを見てもらうことで、聴衆とコミュニケイト出来ると信じており、2・3曲歌ったころになれば、私の外観を気にする方はいらっしゃらないと思うと述べております。
NANAの今迄に紹介されていた内容が垣間見られ、さわやかな風を残して日本を去って行ったNANAの貴重なインタビュー記事でした。